MIC

今日の授業は、Management interculturelでした。

この授業は基本的に、文化的違い(言語的な、距離・空間的な、身体的な)から引き起こされるコンフリクトをどのようにマネージメントしていくかというのがテーマです。先生は3人リレー式。

今日の先生は、今日が初めての授業だったのだけど、「どうマネージメントしていくか」じゃなくて、「どう違うか」に重心が偏っていた。計6時間、langage、ジェスチャー、イントネーションの使い方が、国によってどう違うか、、について延々と話していた。(そして先生はなぜか「言語至上主義者」。言語なしで思考することはできない、と。うーん (ー'`ー ; ))

しかしなんだか、全てのコンセプトの扱いが雑。「langueとは何か」を説明する際、signifiantとsignifiéの概念を引き合いに出してるんだけど、そんなあっさり!というくらいの薄味(simplifiéされすぎてる)。それから、言語によって形成される概念を説明するために、文化人類学の研究を引き合いに出しているんだけど、*1そちらもあまりargumentéされないまま、都合よく借用されているなーと。

というわけで、非常に居心地の悪い思いがしたわけでした。

文学部で研究されるような比較文化論も、MBAでやるMICも、基本となる部分は共通であるべきだと思うのだけど、後者が前者を都合のよいときだけ借用するみたいな、ナンパなやり方はよした方が良いんじゃないかと思った。目指しているものや用途が違うとはいえ、両方アカデミックなんだから、信用が落ちるよね。

今回の授業で得たことといえば、「みんな違ってみんないい」っていう相田みつを的な説教のみでした。「だから何?(=so what?)」の部分を学びに来ているんですけれどもねー。で、結局どうmanagementせよと... (。-`ω-) ??

*1:(有名な例だけど)雪のたくさん降る地域には雪を言い表すさまざまな語彙が存在する。そうした語彙を持っていない言語を使う私たちは、彼らとは違う雪の概念を持っている、とか。