友人のブログより

友人のブログにパリ第8大学教授のドゥメ先生の行ったK大での講演会についての記事があり、興味深かったのでトラックバック

http://d.hatena.ne.jp/hiroko315/20050518

このことについてこれまた別の友人に本*1を借りて読んでみました。(彼女はアドルノがはげの小男だと知って、たいそうショックを受けておられました。)「音楽作品のアイデンティティ」をどこに求めるかという議論。とても分かりやすかったので、まとめてみます。(ご両人ともありがとう☆)

1. 「作品」=「楽譜」
「楽譜」を作曲家の人格や個性の結晶化したものと考え、「作曲家」−「楽譜」−「作品」というラインを音楽解釈の中枢としていた。しかし、もちろん音楽の場合、芸術作品*2と違い「モノ」として眼前に存在するわけではないので、演奏されて始めて作品たりうる。演奏者の存在や楽譜に還元できない要素の不可欠性にすぐに気づく。
2. 「作品」=「演奏家」による具体化。
次に登場するのはロマーン・インガルデンさん。楽譜に中に残る多くの不確定箇所の存在を指摘し、演奏者がその不確定箇所を補って具体化させたとき、初めて作品が成立すると考えた。すなわち、作品に向かう演奏者の志向性を重視した。しかし、彼の考えによれば、演奏家の行う解釈は楽譜を基盤に行われるため、演奏家の解釈自体が作品自体のうちに組み込まれていることになる。それでは、演奏者はどこまで自由に解釈を行っていいのか?
3. グッドマン
上の疑問に正面きって答えてしまったのがグッドマンさん。作品の同一性を保つためには、楽譜にあるテンポやダイナミックスは変えてもいいが、メトロノーム記号は守らなきゃだめ、と言った。???。→これは結構無理がある。作品のアイデンティティは具体的な要素では規定できなさそう。
4. 「作品」=「共同体的な記憶の総体」
ホセ・バウエンさんはジャズ研究を通して、一つの結論にたどり着く。つまり、ある特定の作品について、「全ての演奏に共通している要素は何一つ存在しない」。しかし私たちは「これは〇〇という曲だ」と同定できる。なぜか?彼にとって、楽譜は普遍的な存在ではない。私たちは常に楽譜に忠実なわけではないし、編曲のスタイルは時代や場所によって変化するものだから。すなわち、楽譜は作品のアイデンティティではない。彼は作品のアイデンティティを、共同体的記憶に求める。バウエン曰く、それぞれの時代や場所での流行に影響を受けつつ、演奏者が積み重ねてきた演奏の記憶、それこそが作品なのだ、と。

以上、「力士が作った料理がちゃんこです」的説明をさせて頂きました(笑)現実はもっと複雑化して、バウエンの言う「共同体的な記憶」自体に、疑問符が置かれる状況だろう。「共同体的な記憶」を言うと、「西洋芸術中心主義」に変わる、新たなイデオロギーの息吹を感じてしまう。社会調査でアンケート等とっていると、「記憶」というか、もはや信仰のような印象を受けます。もうすでに言い古された文句でしたね、失礼。

*1:『芸術学を学ぶ人のために』(世界思想社)第2章、1節

*2:かなりニュアンスを省いてます。言うまでも無く、コピー等複製技術を考えれば、「芸術作品=一つのモノ」は成立たないです。